アリア・レーベル第14弾
ARIA AR 0014 1CD-R\1700
ヘルベルト・フォン・カラヤン
1948年、ウィーン・フィルとの「悲愴」
第13弾からカラヤンの演奏が続く。
店主はカラヤンの熱狂的なファンではないのだが、しかしカラヤンの音源には聴くべきものも多いということを伝えたい。
さて、戦中ドイツの音楽界で干されて厳しい状況に陥ったカラヤン。このままベルリンにいても空襲でやられるのは時間の問題。
終戦間際の大混乱の中どうやってイタリアまでの飛行機に乗れたのか不明だが、とにかくカラヤンは命からがらイタリアに逃げ延び、そこで終戦を迎える。
ようやく戦争が終わったのである。
しかし状況が変わったことで事態が好転するかというと、残念ながらそうはいかない。
第13弾でお話したとおり、カラヤンはナチスに入党していた。
ユダヤ人の血を引く女性と結婚したとか、ヒトラーに嫌われていたとか、積極的な党活動をしていたわけではないとか、カラヤンを擁護する事情はいろいろあった。しかし戦後の「非ナチ化裁判」で、カラヤンはドイツ・オーストリアでの指揮活動を全面的に禁止される。
カラヤンが指揮活動を許されたのは1945年12月15日。
これは・・・なんだかいやに早い。
フルトヴェングラーが連合国から許されたのが1947年だから、ちょっと異常なほど早い。その決定を下したアメリカ人担当者はその軽率さゆえに後で処分を受けるが、とにもかくにもカラヤンは1946年1月12日、ウィーン・フィルとのコンサートを開催するのである。
ただ、やはりそうはうまくいかない。
すぐにソヴィエト軍が横槍を入れてきて、カラヤンの復帰コンサートとはわずか一日で終了。その後のコンサートはアメリカ軍によって中止された。もちろんフルトヴェングラーによる圧力もあったとされる。このあとザルツブルグ音楽祭で指揮をすることになるのだが、それも最終的に禁止されてしまう(本番はプロンプター席でこっそり指示を出していたという)。
またもやカラヤン、人々の前で指揮することができなくなってしまうのである。
うまくいきそうでも、どこか歯車がかみ合わない。
ついにこの天才の命運も尽きたかと思われた。
が、神はカラヤンを見捨てなかった。哀れなカラヤンに、ついに救いの手が差し伸べられる。1946年初頭。
EMIレコードのプロデューサーであるウォルター・レッグがカラヤンの前に現れ、「年間12枚の録音を3年契約で」と言って来たのである。
まさに救いの神。
レッグはイギリス人。そして契約しようという会社はスイスにある。何をしようとアメリカやソ連にとやかくいわれることはない。
この時点でカラヤンはまだ公の指揮活動を解禁されていないが、レコーディングならかまわない。こればっかりはフルトヴェングラーでも手出しはできない。
ここでついにカラヤンとレッグのタッグによるウィーン・フィルとの一連の録音が開始されることになるわけである。
カラヤンとレッグといえば、カラヤン初期時代の膨大なフィルハーモニア管弦楽団との録音が記憶にあると思う。しかしそのフィルハーモニア管との録音の前に、ウィーン・フィルとの輝かしい記録がいくつか残されていたのである。
このころの録音は小品も多いが、これまでにない大作録音が相次ぐ。
ベートーヴェンの8番、「第九」、「運命」、シューベルトの「グレイト」、モーツァルトの第33番、第39番、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」、交響曲第2番。
そして極め付けが・・・今回ご紹介するチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。
これらの録音は、後年のフィルハーモニア管やベルリン・フィルなどの音源の前でほとんど陽の目が当たることはない。しかし「レコーディング」に命を掛けることになるカラヤンの原点がここにある。
キリリと引き締まったボディと切れ味の鋭いアタック。それまでの巨匠たちの演奏が巨大戦艦だとしたら、カラヤンの演奏は最新鋭の高性能ミサイル。
1939年.4月.15日 |
ベルリン・フィル |
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1948年.11月.4-8日, 8-10日
1949年.1月.21日 |
ウィーン・フィル |
当録音 |
1955年.5月.17,21,23,24,27日
1956年.6月.18日 |
フィルハーモニア管 |
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1964年.2月.11,12日 |
ベルリン・フィル |
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1971年.9月.16-21日 |
ベルリン・フィル |
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1976年.5月.5,7日 |
ベルリン・フィル |
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1984年.1月.10-16日 |
ウィーン・フィル |
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カラヤンがこの「悲愴」を録音したのは1948年。
前年のシーズンはゼロだったコンサートが、1947/48年は一気に30近くを数えた。
連合国から公の演奏会の許可も下り、ウィーン・フィルとのコンサートも大成功。ウィーンでは新たにウィーン交響楽団を手中に収め、ロンドンではレッグが創設したフィルハーモニア管弦楽団を初めて指揮。さらにこの年のザルツブルグ音楽祭の主役もカラヤンだった。
ようやく少しずつカラヤンに明るい日差しが当たり始めた・・・
実はこの後またもやカラヤンはウィーン・フィルから引き離されることになるのだが、それはまた後の話。いずれにせよこの新世代の「悲愴」によってカラヤンは、「現人神フルトヴェングラー」を筆頭とする大巨匠たちににじりより、白熱した存在感を示すことになる。
フルトヴェングラーはこの録音の翌年、久しぶりに再会したワルターに会ったとき、あいさつもほどほどに、カラヤンについてワルターがどう思っているか質問攻めにしている。
当時まだまだフルトヴェングラーとカラヤンの間には大きな大きな差があったはずなのに、この巨人は迫り来る若き騎士の追撃が気になって仕方がなかったのである。
フルトヴェングラーがこの頃カラヤンの演奏や録音をどれくらい聴いたかはわからない。しかし当時のフルトヴェングラーはまるで愛する者を思うのと同じくらいの激しい情熱で、憎きカラヤンのことばかり考えていたに違いない。
ひょっとするとそのフルトヴェングラーの熱き思いこそが、カラヤンの台頭を現実に導いてしまったのかもしれない。
思いは、現実化する。
この「悲愴」を聴いているとそんなことを考えた。
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