アリア・レーベル第30弾
ARIA AR 0030 1CD-R\1700
フリッチャイ&ベルリンRIAS響
シューマン:交響曲第1番「春」
今回の主役の一人は、ドイツ・グラモフォンである。
ドイツ・グラモフォン。
クラシック・ファンなら知らぬ者のない、世界最高のクラシック・レーベル。
その豪華なアーティスト、充実したレパートリー、安定した音質。いかにEMI(WARNERになってしまったが)ががんばろうと、いかにSONYががんばろうと、この数十年、ドイツ・グラモフォンの地位が揺らいだことはない。とくにCD時代に入ってからは、クラシック業界は常にドイツ・グラモフォンによって牽引されてきたといっていい。
そのドイツ・グラモフォンの歴史は複雑で奇奇怪怪だが、1898年に設立され(英グラモフォンのプレス工場がハノーヴァーに建設された)、第1次大戦のあおりを受けて1917年に英グラモフォンから独立。その後順調に売り上げを伸ばすが、大恐慌と第2次世界大戦により満身創痍の痛手を被る(年間生産枚数・・・1929年1000万枚
→ 1936年140万枚)。
第2次世界大戦後、現在の黄色いレーベルを使用するようになり、地道に録音を再開。50年代後半になってから急成長したと言われるが、その最大の功労者はカラヤン。1959年にベルリン・フィルとともに専属契約を結んで最初のリリースが「ベートーヴェンの交響曲全集ボックス」という超弩級の扱い。その後ドイツ・グラモフォンはカラヤンの威光をまといながら世界最高のクラシック・レーベルとして世界中のレコード・ショップに君臨することになるわけである。
店主がCDショップの店頭で働いていたときは、新譜コーナーの一等地は常にドイツ・グラモフォン。自分が働いていた間、一度もその場所を他のレーベルに明け渡したことはなかった。
もちろん偏見でしかないのだが、とにかくこのレーベルから登場することが「超一流アーティスト」の証だった。同じグループのDECCAでもPHILIPSでもだめ。ドイツ・グラモフォンじゃないとだめだった。
ただ上述のとおり、その道のりは決して平坦ではなかった。
とくに第2次世界大戦の前後はいつつぶれてもおかしくない状況だったと思う。結果的に1959年にカラヤンとベルリン・フィルがやってきたことで現在のポジションを手に入れるわけであるが、それまでのドイツ・グラモフォンというのは、「わりとがんばっているドイツのレーベルのひとつ」だったのである。フルトヴェングラー、ヨッフム、ベームなどの録音もあるにはあったが、彼らがレーベルの柱になってくれたわけではない。
では当時どういう人がドイツ・グラモフォンの中心にいたかというと、店主のようなマイナー志向の人間にはたまらないのだが、指揮者だとフリッツ・レーマン、フェルディナント・ライトナー、そしてマイナーではないがマルケヴィチ。ソリストならエッシュバッハー、アスケナゼ、モニク・アース、カール・ゼーマン。店主にとっては百花繚乱だが、世界にアピールするには正直ちょっと弱い。
そんなドイツ・グラモフォンの看板指揮者として一人気を吐いたのが・・・今回のもうひとりの主役、フェレンツ・フリッチャイだった。
戦後の混乱期からカラヤンが契約するまでのドイツ・グラモフォンを支えたのは、この人だったのである。
フェレンツ・フリッチャイ。
1914年8月9日、ブダペスト生まれのハンガリーの指揮者。
「なんだハンガリー生まれか」というなかれ。父親も名の知れた指揮者で、リスト音楽院ではバルトーク、コダーイに学び、15歳で指揮者デビューしたというのだからただの田舎モノではない。(ハープ以外のすべてのオーケストラ楽器をこなしたという伝説が残っている。)
当然のことながらフリッチャイ、あっというまに頭角を現す。1947年に急病のクレンペラーの代わりにアイネムの「ダントンの死」を指揮して一躍世界的な注目を集め、ヨーロッパ中からひっぱりだことなるのである。
そんな彼が選んだオーケストラは、ベルリンRIAS交響楽団。西ベルリンのアメリカ軍占領地区放送局(RADIO
IN AMERICA SECTOR)通称RIASが1946年に設立したオーケストラ。
フリッチャイは首席指揮者としてこのオーケストラに就任、人事権も掌握し、瞬く間にベルリン・フィルと並ぶ存在に急成長させる。
1948年、フリッチャイとドイツ・グラモフォンは契約を交わし、その後約10年の間に100を超える録音を残す。
ドイツ・グラモフォン、この男にレーベルの命運を託したわけである。
そんな彼の膨大な録音の中から今回取り上げたのは・・・彼が唯一残したシューマンの交響曲録音。第1番。
彼はシューマンの交響曲を、このときのこの1曲しか残していない。
ご存知かもしれないがフリッチャイは晩年(といっても若いが)白血病に苦しめられ、9回もの手術を強いられる。そして人生の危機と直面した彼の音楽性は1950年代後半から大きく変貌し、よくいわれる「フルトヴェングラーの再来」と呼ばれる芸風を見せ始める。
そんなわけでフリッチャイの演奏で注目されるのはそれ以降のものが多いのだが、今回のものは1955年。
つまり変貌前である。
その特徴は「リトル・トスカニーニ」と呼ばれる鋭敏で明確な音楽性。「ボーデン湖を突き抜けていくような」と誰かが評していた突進力。晩年の演奏とはかなり違う。
今回収録のシューマンもなかなか辛口で決して大衆的ではない。が、当時ヨーロッパを席巻したフリッチャイ独特の緊張感と厳しさにあふれている。
立ち上がりこそもっさりしているような気もするが、尻上がりに凄みを増し、覇気に満ちた終楽章は一気呵成に爆走してオケを崩壊寸前にまで追い込む。
何度聴いても、いや、聴けば聴くほどそのすごさが分かってくるというフリッチャイらしい演奏。
フリッチャイの隠れ名盤と言っていいだろう。
この演奏を聴いて思い出すのは、これまで紹介したカラヤン&ウィーン・フィルの「悲愴」(1948年)、そしてカンテルリ&ミラノ・スカラ座管のチャイコフスキー交響曲第5番(1950年)。
1908年生まれのカラヤン、1920年生まれのカンテルリ、そして1914年生まれのフリッチャイが、同時期に同じようなタイプの音楽を志向していたというのは非常に興味深い。そのなかで彼らの音楽性を大成させたのがカラヤンであることは疑いようがない。
この時期、新時代の才能が音楽の新たな潮流を作り出していたのである。
録音は1955年のモノラル。
それにしては雑味のある音質で、決していいとはいえない。
そんなこともあってか、この音源は彼の録音の中では取り上げられることが少なく、今となっては逆にレア音源となっているのだ。音質に過度の期待を抱かず、その苛烈な緊張感を楽しんでほしい。
カップリングは、1950年のベルリン・フィルとの「ティル・オイレンシュピーゲル」。
これがまたいい。
もちろんこれもドイツ・グラモフォン音源なのだが米DECCAで発売されたLPを復刻したもので、音質的にも非常によい(LPとしてはドイツ・グラモフォン盤が先行発売されたが、米DECCA盤もオリジナル・マスターを使用しているのでどちらもオリジナル盤である。アメリカ盤は盤質的に問題があり針音やノイズなどに問題があるとされるが、今回はなかなか調子いい)。なにせイエス・キリスト教会の響きがすごい。そしてまた演奏が深々としてすばらしい。1950年、復活途上のはずのベルリン・フィルだが・・・やはりすごいものはすごいのだ。
実際これらの米DECCAのレコードによってフリッチャイの名前はアメリカで知られることになり、後のボストン響デビューやヒューストン響常任指揮者へとつながったものと思われる。当時のアメリカ人にとっては「フルトヴェングラーの次の人」としてフリッチャイが認識されていたのである。
フリッチャイとベルリン・フィルの最高の記録の一つとして、ベルリンRIAS響とのシューマンと一緒に聴いてみてほしい。
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