アリア・レーベル第41弾
ARIA AR 0041 1CD-R\1700
ロリン・マゼール&ベルリン・フィル 1960年
チャイコフスキー:交響曲第4番
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マゼールが死んだ。
先日のアバドのときと一緒で、相次ぐ公演キャンセルになんとなくいやな予感はしていた。
今回のアルバムは4月頃から準備していたものなのだが、それがまさか追悼アルバムになるとは。
ただ「謹んでご冥福をお祈りします」と言いたいところだが、このアルバムをかけていたらマゼールが指揮棒を持って棺桶から身を乗り出してきそうな気もする。
マゼールというと、よく「ベルリン放送交響楽団音楽監督時代は個性的でよかった」と言われる。
しかしその若き栄光の時代の前に、マゼールはベルリン・フィルと多くの録音を残している。
ただ、残念ながら今日それらが注目されることはあまりない。
知らない人も多いかもしれない。
今回ご紹介するのはそんな大昔のベルリン・フィルとの演奏。
大スター、マゼールの原石時代の録音である。
マゼールは1957年からベルリン・フィルとの録音をリリース開始。
当初は小品がメインだったがやがて「運命」、「田園」、「イタリア」、ブラームスの3番、シューベルトの一連の交響曲集、と大作をたてつづけに録音。
当時のドイツ・グラモフォンはとりあえずカラヤンと契約をしていたとはいえまだ全盛期前夜。
新時代を切り開く才能豊かな若手スターを探していて、白羽の矢が立ったのがマゼールだったわけである。
とはいえマゼール、まだ30歳。
わずか数年前までフルトヴェングラーが指揮し、今は帝王カラヤンが君臨する天下のベルリン・フィルを、若干30歳の若造が果たして制御できるのか。
・・・ただ、マゼールは普通の若者ではなかった。
8歳で大学オケを指揮してデビュー、9歳でストコフスキーの招きでロサンゼルス・フィルを指揮、さらにトスカニーニに認められNBC交響楽団を指揮、ニューヨーク・フィルにもデビューした。
マゼール、間違いなく20世紀最大の神童だったのである。
しかもあてつけにペロペロキャンディーを舐めてこの神童にあからさまな反抗態度を示し、練習中はわざと音を外して嫌がらせをする立派な大人たちに、マゼール少年はプロの指揮者としてその間違いを指摘し、健全な人間関係を築いていったという。
そして彼が賢いのはそこで一旦華やかな世界から身を引き、普通の生活を送る決断をしたこと。その後彼はピッツバーグ大学で数学・語学・哲学を学び、その一方でピッツバーグ交響楽団でコンマスや見習い指揮者を務めた。
こんなふうにマゼールはあふれる才能とおそるべきキャリア、そして広い見聞とバランス感覚を身に付けてベルリン・フィルの指揮台に立ったわけである。同時期には史上最年少でバイロイトにもデビューしている。
マゼール、そんじょそこらの若手指揮者ではなかったのだ。
トスカニーニに仕えていたNBCのツワモノどもをわずか10歳で黙らせた男である。いかに天下のベルリン・フィルとはいえ、マゼールにとっては決して雲の上の存在ではなかった。
今回ご紹介するのは、当時のマゼールの資質にあっていると思われるチャイコフスキー、しかも4番。
この演奏を聴いてもらえればマゼールのすごさは一目瞭然。
彼はこの怪物オケを前に一歩もひるむことなく自在にコントロールし、自分の音楽を作り上げているのである。
その才能ほとばしる直情的でストレートな音楽。この尋常でないエネルギーはその後数十年にわたって彼の体の中をほとばしりつづけた。
さてこのアルバムのリリース準備をしていてふと気づいた。
アリア・レーベルの第19弾。
カラヤン&ベルリン・フィルによるチャイコフスキー交響曲第4番。
カラヤンにとって新たな時代を迎える輝かしい凱歌と言っていい壮絶な演奏。
これが・・・今回のマゼールの録音のわずか2ヵ月後の演奏なのである。
カラヤンがこの録音を行うことを決定したのはマゼールの録音の1ヶ月前。
推測でしかないが、カラヤンにとってベルリン・フィルと数多くの録音を行っている新進指揮者は厄介な存在だっただろう。つぶしておきたい相手だっただろう。
まったく同じオーケストラでまったく同じ曲をわずか2ヵ月後に録音することで、20歳年下の若造の鼻をへし折ってやりたかった・・・というのは十分考えられる。
だからこそあの壮絶な演奏ができあがったとも。
かつて老将フルトヴェングラーが若きカラヤンに対して感じていた脅威を、カラヤンもまた若きマゼールに対して抱いていたかもしれないというのは、ちょっと面白い。
ぜひ第19弾のカラヤンの演奏と今回のマゼールの演奏を聴き比べてみてほしい。
カラヤンの演奏はすごい。しかしそのカラヤンに畏怖を感じさせていたであろうマゼールの音楽もまたすごい。
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