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大アーティスト
なぜか埋もれていたアルバム
その3


 その名の通り。
 大演奏家たちの、どういうわけか見過ごされてしまっている不遇な音源を紹介する特集。
 廃盤になるのが早いこの業界、こういう特集でその存在をきっちり押さえておいていただければ。


「俺はチェリビダッケだ」と叫ばなかった日。
1960年ミラノでの「田園」
 セルジュ・チェリビダッケ&RAIミラノ交響楽団
ARCHIPEL ARPCD0524 \3000


 チェリビダッケ。

 この人ほど、「音を聴いただけで誰かわかる」指揮者も珍しい。

 若き日の凶暴なまでのエネルギー。常識など知ったことか、とばかりに突き進む異端性。
 そして晩年の、時間そのものが姿を変えてしまったかのような巨大な演奏。

 だから今回、この1960年の「田園」を聴き始めたとき、少し戸惑った。

 あれ?

 意外に普通なのである。
 いや、「普通」という言い方はちょっと違う。

 とても美しい。
 爽やかで、紳士的で、ノーブル。
 堂々としていて、隅々まで立派なベートーヴェン。

 嵐の場面では例によってチェリビダッケの唸り声も聞こえる。
 しかし煽らない。
 奇を衒わない。

 「俺のベートーヴェンを聴け」と迫ってこない。
 かといって、決しておとなしい演奏でもない。
 正々堂々たる、大指揮者の「田園」なのである。

 ところが、それまでのチェリビダッケは違った。
 たとえば1959年にミラノRAIと残したブラームスの交響曲全集。

 久しぶりにそれを聴き直して、私は思った。
 やっぱり喧嘩を売っている。

「俺はチェリビダッケだ!」
「そこらのブラームスと一緒にするな!」

 そんな声が、演奏の向こうから聞こえてくるような気さえする。

 尖っている。
 異端の匂いがする。

 ベルリンで味わった屈辱を晴らすかのように、大きな流れの中に取り込まれてたまるか、という意地。
 野心。
 自己主張。
 おれを誰だと思ってるんだ。

 ところが、わずか翌1960年。

 この「田園」には、それがない。
 私の耳には、こんなふうに聞こえた。

 1959年――「おれはチェリビダッケじゃ~~~!!!」
 1960年――「こんにちは、チェリビダッケです。では始めましょうか。」
(笑)

 しかし、単に丸くなったのではなかった。

 それを教えてくれたのが、この「田園」のわずか二週間後に演奏されたチャイコフスキーの「悲愴」。

 1960年の「悲愴」は、壮絶だった。これはすごい。

 とくに第1楽章。
 ここまで熱く、激しく燃え上がる「悲愴」はそう多くない。

 つまりチェリビダッケから炎が消えたわけではない。
 むしろ猛烈に燃えている。

 でも1959年のブラームスとは、何かが違う。

「変わったことをやって驚かせてやろう」

 ではない。

「おれという指揮者を見ろ」

 でもない。

 ただ音楽そのものが、ものすごい。

 「田園」なら、爽やかでノーブルになる。

 「悲愴」なら、壮絶に燃え上がる。

 そこでふと思った。

 もしかするとこのころチェリビダッケは、“自分がチェリビダッケであることを、音楽の中で証明する必要がなくなった”のではないか。

 1959年までは、

「俺を聴け」

だった。

1960年になると、

「作品を聴いてくれ」

になった。

 もちろん、これは私が演奏を聴いて感じた印象にすぎない。

 この1959年の一年の間に、チェリビダッケに何か決定的な出来事があった、と証明できるわけではない。
 教育者としても活動し始めたという話は聞くが、いったいこのころ、チェリビダッケに何が起きていたのだろう。
 それは分からない。


 そして、さらに驚いたことがある。

 このCDの最後に収められている、

ヨハン・シュトラウス2世「ウィーン気質」。

 チェリビダッケがワルツ?

 ところが聴いてみると……

 ちゃんとワルツなのである。
 しかも、ものすごく洒落ている。
 優雅。
 軽やか。
 おしゃれ。

 あのチェリビダッケが、いったいどんな顔をして指揮台でこれを振っていたのだろう。
 思わず想像してしまう。

 演奏後の拍手も大きい。どうやら客席にもかなり受けたらしい。


 さらにこの時期の演奏を追っていくと、モンテヴェルディまである。
 これがまた静謐で敬虔な演奏なのである。

 「田園」ではノーブル。

 「悲愴」では壮絶。

 モンテヴェルディでは祈るように静か。

 そして「ウィーン気質」では、優雅にワルツを踊らせる。

 これが、1960年のチェリビダッケだった。

 若き日の反逆児でもない。
 晩年の哲人でもない。
 そのどちらでもない、ほんの一時期。

 作品によって、自分の姿を自在に消してしまうチェリビダッケ。

 そんなチェリビダッケがいたことを、私はすっかり忘れていた。


 40年ほど前。
 まだチェリビダッケのCDなどほとんど存在しなかった頃、私はチェリビダッケのイタリア盤を探し回っていた。
 RAIミラノ、RAIトリノ、RAIローマ……。
 正体のよく分からないイタリア盤を見つけるたびに、

「またチェリビダッケが聴ける」

と喜んでいた。

 あれから40年。

 チェリビダッケの録音は、むしろ多すぎるほど世に出た。
 そしていつしか、こういう演奏はその膨大な録音の中に埋もれてしまった。


 今回見つけたARCHIPEL盤もすでに廃盤。
 ARCHIPELから発売されたチェリビダッケ盤は、いまでは軒並み入手困難になっている。

 ところが海外の倉庫を探していたら――
 この「田園」だけが8枚残っていた。

 これが最後だろう。



 自然体の向こうに現れた、爽やかで、ノーブルで、正々堂々たる「田園」。

 大演奏家の埋もれた演奏、第3弾。

 今回は、

「チェリビダッケが、チェリビダッケであることを叫ばなかった瞬間」

をお届けしました。




ARPCD0524
\3000
海外在庫限り
極めて僅少
チェリビダッケの「田園」
 ①ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」 ヘ長調 op.68
  RAIミラノ交響楽団
  1960年1月8日ミラノでのライヴ

ボーナス・トラック:
 ②シューベルト:6つのドイツ舞曲 D.820
 ③J.シュトラウス:ウィーン気質 op.354
  RAIミラノ交響楽団  1960年2月22日ミラノでのライヴ
セルジュ・チェリビダッケ指揮




参考アルバム
ここまですさまじい「悲愴」はそうそうない

ARPCD0436
\3000
海外在庫限り
極めて僅少
チェリビダッケ指揮チャイコフスキー:「悲愴」
 (1)チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」 ロ短調 op.74
  1960年1月22日ミラノでのライヴ
ボーナス・トラック
 (2)モンテヴェルディ:「聖母マリアのための挽課」から
  「アヴェ・マリア・ステラ」
   1959年ローマでのライヴ
セルジウ・チェリビダッケ指揮
ミラノRAI交響楽団(1)
ローマRAI交響楽団(2)





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